「八十里 こしぬけ武士の 越す峠」
司馬遼太郎の名著「峠」の主人公、長岡藩家老の河井継之助公が幕末の戊辰戦争の1つ、北越戦争で負傷し、体制を整えるため、越後から会津に八十里越峠を通って越境した際に詠んだ句と言われております。
八十里越峠はこのように幕末までは越後と会津を結ぶ(より俯瞰すれば、当時の物流の大動脈は海路であり、その主たる航路は日本海側にあったため、京・大阪と東北地方の一部を結ぶ)大動脈でありましたが、明治時代に入り、物流が鉄道、そして自動車にシフトしていくことに伴い、その重要性は相対的に低下し、明治も後期になると、その担い手は磐越西線、そして国道49号(今の磐越道ですね)に完全に奪われていきました。
その衰退傾向の転機となったのが今から遡ること約50年前の田中角栄先生の「越後と会津を再び道路で繋ぐぞ!」との強い意思でありました。
以来、半世紀。
三条市と只見町を結ぶ国道289号八十里越区間は時空を超えて再び繋げるべく、豪雪地帯のため、1年に半年しか工事ができず、かつ、その区間の約9割をトンネルや橋梁が占めるという難工事の連続の中、弛まぬ努力が続けてまいりました。
そして…
いよいよ、令和8年秋から9年夏までには開通するとの具体的な見通しが立ってまいりました。
さて、そんな八十里越工事の進捗状況を確認するために現地に分け入ったのですが、そのことについては明日以降改めて…