
引き続き、地域と暮らしの環境省の進む道に対する現時点での個人的雑感の続きを…
昨日は、行動変容、つまり脱炭素に資する行動変容、という言葉をさりげなく、しかも幾度となく繰り返しましたが、今回の課題で一番の難関は、いかにして、生活者、地場企業、コミュニティなどありとあらゆる社会主体に実際の行動変容に結び付く豊富なメニューを提示できるのか(或いは、仕掛けを施すことができるのか)ということなのです。
そういう意味では、私が三条市長時代に取り組んできたスマートウェルネスシティ構想と今回の取組には実に相似点が多い!
つまり、圧倒的な環境(スマートウェルネスシティ構想でいえば、健康)無関心層(どの分野にも無関心層は7割いると言われております)をいかにして行動変容を起こさせるのか…この一点に尽きるのが両者の共通点であります。
私は三条市長時代、この課題にかなり腰を据えて取り組んでまいりました。
もちろん確かな持論など持ち合わせるに至っておりませんが、それでも紆余曲折の末辿り着いた仮説があります。
やや乱暴に仮説の結論を申し上げると、①行動変容は「せざるを得ない」か「したい!」かのどちらかのアプローチによってしか実現できない、②「したい!」の動機付けは環境(健康)一辺倒では絶対に行動変容に結び付かない(「したい!」の動機付けは極力多角的であった方がいい。脱炭素(健康)に繋がっているかどうかは無関心層には意味のあることではないので、あくまでも行動変容の起こったその先の結果論に徹するべき)、ということです。
例えば、スマートウェルネスシティ構想についていえば(目的は(できれば徒歩による)外出機会の創出です)、健康無関心層で家でダラダラ過ごすことが好きな私に、「健康に繋がるんだから外に出て歩け!」と言われてもテコでも動きませんが、「300m先に牧瀬里穂がいるよ!(実際ファンです)」と言われれば死ぬ気で猛ダッシュする、ということですし、少なくとも生きていくために食材の買い出しには定期的に外出せざるを得ない、ということです(前者が仮説②、後者が仮説①に対応するイメージですね)。
そして、こうした観点でメニュー創造(或いは仕掛けづくり)をしていけば必ず活路が見出せると楽観的に考える私がここにいます(もちろん、昨日申し上げた、行動変容の先に脱炭素貢献度の見える化に繋がる全てのプレイヤーの数値化が大事です)。
さらに楽観的に申し上げれば、環境は健康にやや優位に立つと思っています。
例えば、「せざるを得ない」の代名詞というべきものの1つに課税政策がありますが(例えば、シンガポールでは過度な渋滞対策、逼迫する駐車場対策として、我が国では考えられないほどの金額を自家用車取得時に課税します)、環境分野では排出量取引という(いつか解説しますが…)お金を取られるどころかお金が手に入るという、つまり「せざるを得ない」を「したい!」に変貌させる、信じられない、錬金術のような仕組みまで有しているのですから!
極論すれば、生活者、企業、コミュニティを始めとする全ての社会主体が(自覚の有無に関わらず)脱炭素に資する行動を実際に起こせば、結果として生ずる脱炭素貢献度に応じて(かつ排出量取引を通じて)「日本円」でそれぞれに還元できることも理論上可能なのが(還元の在り方は地域それぞれであるべきですが…)、地域と暮らしの環境省が切り開く世界なのです!(ちなみに、例えば買い替えのタイミングで省エネ家電を生活者が購入することで、脱炭素への貢献に加え、電気料金の節約という「日本円」の還元をも手に入れることができますが、ここでいう排出量取引を通じて手に入れることができる当該生活者の「日本円」はまたそれとは別のものというところが錬金術的でユニークなのです)
これほど「したい!」に繋がる動機付けなど他にあるのか⁉︎というのが私個人の肌感覚であり、この肌感覚が私を楽観的にさせているのです。
また、国民運動の名称の前に入っている「豊かな暮らし」とはこうしたことも包含されてのことであるというのが私の解釈であり、きっと間違いないはず。
少し長く書きすぎてしまいました…
さぁ皆さん!
何となくワクワクしてきませんか?
自分達が「したい!」と思って行動したその結果が脱炭素に資するだなんて!心の豊かさまで手に入れることができるだなんて!
まさにアダムスミスの(真の意味で)説くところの「神の見えざる手」ではありませんか!
さて、これから実践活動に没頭してまいります。